【新連載】介護家族をささえる (2018年4月会報より)

2018.06.11会報

<家族の会との出会い>

思えば30代の頃、私は認知症の義父と寝たきりの義母の介護、4人の子どもの子育てに仕事、そして親族との関係でクタクタになっていた。

どうにかならないかと思っていた矢先、雑誌に「呆け老人をかかえる家族の会」の案内が載っていた。これはなんだろうと思い、電話をしたのが家族の会との最初の出会いである。

「名古屋の駅前の中小企業センターで2ヶ月に1回交流会をやっているから、いらっしゃい」と言われて、どんなものか、と出かけた。

最初は何も分からないので、一人で日々の介護の様子をしゃべったように思う。それくらい、いっぱいいっぱいの毎日でもあった。

 

義父の介護が始まった頃は、テレビ、新聞、雑誌、何を見ても介護の「か」の字も書いていなかった。周りで介護しているという話も、聞いたこともなかった。

それだけに気持ちを吐きだす相手も場もどこにもなかった。もちろん話してわかってもらえる人になど会えるはずもない。

義弟のお嫁さんたちの関心ごとは、もっぱら子育て。私にとっては子育てなど義父との日々から比べれば序の口、話が合うはずもなく、新家の嫁は呑気でいいな、羨ましいと思っていた。

 

そんななか、名古屋市で開かれていた家族の会“つどい”への参加。介護経験のある人たちばかりなので、私の愚痴話もちゃんと聞いてもらえた。

そこで、おしゃべりして家に帰ると、2~3日は義父に優しくできる。これは、大事なことだ。介護する人に余裕がなければ決していい介護はできない。

それだけに介護者をどう支えるかがとても大切で、介護者が語り合える家族の会の“つどい”は介護者の心のケアを担える力を持っている、そう思ったのが会への関わりのきっかけとなった。

 

<近くに介護家族が交流できる場が欲しい>

私は愛知県東海市というところに住んでいる。隣の名古屋市まで出かけなくても、もっと近くに介護家族が交流できる場が欲しいと思い、地元の社会福祉協議会に相談に出かけた。

だが、当時の担当者は「ヘルパーが介護家族のところに訪問しているが、交流の場が欲しいという希望は一度も聞いたことがない。だからそんなものは必要ない」と言い、まったく取り合ってもらえなかった。

 

介護をしている介護家族が交流できる場は、地元にはない、必要とも思われていない、頼りになりそうな人もない。

それなら自分でやるしかないか。

でも、私は嫁、親族の目もある。しかもただの介護者、看護師だとか介護職だとか、何かしら介護に関係していればまだよいが、まったく畑が違う。

どこに介護をしている人がいるのか、介護仲間を探すことも、つながるすべもまったくない。この点を解決するために私が考えたことは何か。

「介護用品店を開く」

 

私の家は酒屋を営んでいる。店舗の倉庫代わりになっていた部分を改修し、介護用品店を開くことにした。

ここを窓口にすれば自力で介護家族とつながれる。介護家族交流会ができるし、困っている介護者に地域の情報を伝えることができる。

夫と交代で、1週間泊りがけで東京まで研修に出かけ、それなりの準備をして始めた(今はもうやっていないが、このときの研修はずいぶん役に立った)。

 

介護用品を扱い始めたある日のこと。紙おむつを買いに来た女性がポツリとこうつぶやいた。

「徘徊がひどくて…」

思わず声をかける。「一人でやっているの?よくやっているね。」

彼女の目にうっすらと涙が。今まで誰一人、自分に「よくやっているね」なんて言ってくれなかったと言う。

「うちも舅がボケてるの。本当に腹が立つし、目が離せないし、介護したものでないとわからないからね。周りは都合のいいことしか言わないし…。」

同じ経験をした者同士、短期間で心が通じ合った。介護用品店をやっていてよかった、と心から思った瞬間だった。

 

<地元で交流会を始める>

「月に1回だけ、ほんの数時間でいいから、お茶飲んでダべってストレス発散しようよ」と、知り合った介護者4人と、当時できたばかりの在宅介護支援センターの看護師の計5人で、月1回の集まりを始めた。

在宅介護支援センターもできたばかりで、業務量も少ないということもあったのか、看護師が会に熱心に参加してくれたことはとても助かった。

資金もない、社会福祉協議会の理解もない状態では無料で会場が借りられるはずもなく、とりあえず自宅の隣にある、私の職場でもある事務所の2階を使うことにした。

 

やるぞ!と準備万端、意気揚々と始めた交流会。でもたった3回で、がっくりきてしまった。毎回同じメンバーなのである。新しい参加者を集めることは、思った以上に大変だ。なかなか介護者とつながれない。

そもそも、いったいどこに介護者がいるのか。交流会への思いが強かっただけに、私のなかには「こんなはずではなかった」という気持ちが広がっていった。

 

活動をやめようかとも思ったが、あの社会福祉協議会の人から、「やっぱり僕の言った通り、そんなもの必要ないだろう」と言われるのも癪に障るので、何か手立てはないかと思っていた矢先、思いもよらないところから道が開けた。

近くにある児童養護施設「暁学園」の園長が、お年寄りと子どもとの交流をしたいと言っているらしい。さっそく知り合いに紹介してもらい、暁学園の園長に会いに出かけた。

実は、これが私の人生を変える運命的な出会いとなるのである。

 

<運命の出会い>

暁学園の園長、祖父江文宏氏は、何とも言えない迫力、なんだか本当に恐かった(後で知ったが、園長は俳優でもあった。それだけにその存在感はすごい)。

借りてきた猫状態で、 びくびくしながら小さな声でもぞもぞ「介護家族が交流できる場を作りたいんです」とつぶやいた。

そこで園長が一言、

「それは大切なことだ。今度うちの学園祭を勤労センターでやるけど、午前中が空いているので使え」

「えっ!!!」

予想もしていない突然の展開である。

でも、こちらから相談に出かけた手前、「急にそんなこと言われても困る」とも言えず、「はい、ありがとうございます」と答えて帰ってきた。

とは言ったものの、交流会もたった5人で始めたばかり。使えといわれても何もやったことがないし、何もわからない。困った!困った!!困った!!!困った!!!!

 

究極の崖っぷち、何度断ろうかと思ったか。

でもでも介護家族交流会をPRしたい。それには人が来てくれないとダメ、では人が来るようなものは?話を聞きたいと思うような人を呼んでくればいい。

でもお金は何もない。ボランティアでお願いするしかない。そんな人どこにいるんだろう…。

そこでひらめいた。「あ!あの人だったら、みんな聞きにきてくれるかも」  (つづく)


 

2012年3月に中央法規から出版した著書「介護家族をささえる」より、愛知県支部の活動の歴史を連載します。

但し残念ながら尾之内が会に参加し始めて(平成6年頃)からのお話しですので、1980年8月31日に発足してから先代の皆さまが頑張ってこられた15年間の歴史についてお伝え出来ませんことご了承くださいませ。