【連載】介護家族をささえる (2018年12月会報より)

2019.02.10会報

<若年つどい>

65歳未満での認知症の発症を若年性認知症というが、“つどい”にはたまに50歳代の若い年齢の方の参加もあった。そのなかに若年の常連さんが一人いらっしゃった。初めての方が参加された時には、「うちだけではなかった」と思ってもらえるので、この常連さんの参加はとてもありがたかった。

当初、年齢は関係なく開催していたが、同じ認知症の人でも高齢者と若年が一緒だと、高齢の人の介護者は「若いから気の毒に」と言うし、若年の介護家族は「うちは若いから高齢の人とは違う」と壁を作ってしまう。溝ができないよう、随分配慮しながら進めなくてはいけなかった。

若年は年齢が若いだけに、介護する側が病気を受け入れるまでに随分時間がかかる。経済的な問題も大きく、子どもへの影響も出てくる。「なぜうちだけ、こんなに若いのに」と、参加することでかえって介護者が苦しくなっているように思える時もあった。

だからこそ、なんとか別々に開催したいと思っていた。しかし、“若年つどい”開催には、助言してもらえる医師の存在が必要だ。診断や薬に対するアドバイスも重要になってくる。医師の助言があることで、介護家族の不安感も軽減できる。とはいえ無償のボランティアをやってくれるような医師がそう簡単に見つかるはずもない。副代表の益田医師もしだいに多忙になり、“つどい”に参加できなくなっていた。

そんな時、きっかけは覚えていないが、ある医師とつながりができた。どうもよさそうな先生である。試しにその先生を助言者に、若年に限定した交流会を1回開催してみた。平成12年のことである。

結果としていい助言をいただけたので、「できたらいずれ、若年の交流会を定期開催したいんです。でも医師がいないと…資金もないし…一緒にお願いします」と話しておいた。

翌年も若年交流会を7月に1回開催した。今度もまた同じ先生をお願いした。「いずれ若年の交流会を定期開催したいんです。でも医師がいないと…資金もないし…一緒にお願いします」と話した。社交辞令だったかもしれないが、「出来ることがあればいいですよ」という言葉をいただいた。

いよいよ平成14年春から、若年の交流会実現に向けて動き出した。まずPRも兼ねて、平成14年1月に「ご存じですか?若年認知症」という痴呆介護セミナーを開催し、それを足がかりに、4月から若年交流会を始めた。これまでと別に開催するのは大変なので、一般と若年と交互に行うことにして、偶数月が若年、奇数月が一般(高齢者)とした。これなら、それほど負担なく同じペースで“つどい”を持てる。

2年前からのお願いもあり、お願いしていた医師の先生も隔月で参加していただけることとなった。もちろん立場はボランティア。その後研修でも認知症の講演をお願いするなど随分協力していただき、とても助かった。

結局その先生には丸4年ずっと欠かさず続けて来ていただいた。個人レベルでほんの気持ちのお礼はしたが、交通費も何も出ないのに、凄いことである。とても感謝している。その後、事情があり医師の参加はなくなったが、名古屋会場では軽度~重度までを通して、今でも若年の方の交流会を継続して実施している。

<若年認知症 本人のつどい>

「1週間前、認知症の専門医と言うことで受診にいきました。でもあんな先生のところには二度と行きたくありません。他にいい先生はいないですか?」とショックを受けて交流会に参加された親子があった。

たった10分足らずの初診、本人と介護家族の目の前で、突然に「ご主人はアルツハイマーです。この病気は、あと〇年で廃人のようになるでしょう。」と告知されたのだ。

「少しずつ進行はしますが、一緒にやっていきましょうね。大丈夫ですよ。」など、いくら短い時間でもその一言があればまだ救われたかもしれないが、告知後のフォローもまったくなかったようだ。若年の方だけに、よりダメージが大きい。

初期であればある程、私たちも言葉一つから随分気を使って話をしている。

その半月後、ご本人が自死された。もともとうつ病がある人もいるが、詳しいことは全く知らないし、何が原因かは憶測でしかないので何も言えないが、介護家族がうちの会にたどり着いたばかり、これからという時に残念な結果になり、とても悔しい。

介護サービスを考えるまでに病気が進行していれば、どうやって介護サービスを生活の中に取り込むかを努力すればいいが、その随分前の段階にある介護家族が孤立した状態で悩んでいる姿を目の当たりにしていると、もっともっと早い段階で、本人も介護家族もお互いに知り合い、横につながれる場が必要と痛切に感じた。そのためには、“若年つどい”を始めたときのように「軽度の認知症の人の居場所づくり、介護家族どうしが交流できる場」が必要だ。

「たくさんの人の協力がなければ出来ないんです。一緒にやっていただける方はありませんか?」あちこちで言い続けるようにした。おそらく平成16年あたりから口にしていたのではと思う。

いろいろと言って歩けば、そのうち何かがつながってくるかもしれない。何も発信しなければ、誰にも気付いてもらえない。発信することで、こちらの構想もいろいろと練られてくる。

そのような経過を経て実現したのが、平成20年助成金を足がかりに発足した、初期の若年認知症の方対象の「元気かい」である。

忘れられない言葉がある。「朝、目を開ける前に、必ず思うことがある。目を開けたら、きっと10日前に、医師から夫がアルツハイマーと言われたのは、夢だよね。夢覚めるよね。と思い込ませて目を開けるけど、現実がそこにある」。53歳で夫の認知症の告知を受けた妻の言葉である。

山のような不安感が押し寄せてきて、きっと毎日涙が止まらないだろうと思う。でもそれを乗り越えるのは彼女自身の力でしかない。私たちには、何もできない。ぜいぜい背負っているリュックを下から持ち上げ支えるくらいの寄り添いだけだ。

「元気かい」の必要性を強烈に再確認させられた、言葉でもあった。まだ発足していなかったことがとても残念だが、その言葉があったからこそ、若年認知症の方、介護家族の交流会の必要性を発信し続けることができたのかもしれない。いろいろな人との出会いに感謝したい。

(つづく)

雪

 

2012年3月に中央法規から出版した著書「介護家族をささえる」より、愛知県支部の活動の歴史を連載します。

但し残念ながら尾之内が会に参加し始めて(平成6年頃)からのお話しですので、1980年8月31日に発足してから先代の皆さまが頑張ってこられた15年間の歴史についてお伝え出来ませんことご了承くださいませ。